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本成寺について

当山は長久山本成寺と称し、永仁五年(1297)日印聖人によって開かれた寺であります。日印聖人は当国寺泊の出身で、文永八年日蓮大聖人が佐渡配流の途次に摩訶一丸の名を賜りました。その後叡山に登り十数年の勉学修行の後、再び鎌倉に日蓮大聖人を訪ねましたが、既に御入滅の後であったので御弟子の日朗聖人の門下に入りました。 日朗聖人は日印の勝たれ学解を見抜かれ、摩訶一阿闍梨の称号を授け、日印聖人の生国越後の布教を委嘱されました。 聖人は白牛に経巻を載せ、故郷の伝道布教に出発され、「この白牛の止る処に寺を建立しよう」と考えられました。そしてその白牛のひざまづいた処が越後国蒲原郡大藻荘簿曽根村(現在の新潟県三条市)であったのです。

そこには清水が湧出て紅い蓮の花の他に青い蓮の華が咲き、香りが一面にただよっていました。 聖人はこの不思議な瑞相に深く感激して建てられた草庵が青蓮華寺であります。この処は現在も「牛池の霊跡」と称して尊ばれています。その後、正和二年(1313)三條領主山吉定明、長久の寄進により立派な寺が建立されたのが現在の長久山本成寺であります。 その後、幕府より諸宗の碩学と鎌倉の殿中に於て問答対決を命ぜられ、日朗聖人の命をうけて日印聖人は門下の代表として、よくこれを論破しましたので、日朗聖人は宗祖より継承がれた三筒の霊宝を日印聖人に授けられました。これは宗門の正嫡に定めらたことを意味するのであります。

門祖日陣聖人は幼名門一丸、後に円光坊日陣と定め、門一阿闍梨と号されました。勉学の為、京に上り六条本国寺の学室に入り、教学の奥旨を究められ、応安二年(1369)三十一才の時、本成寺の法燈を継承、近郷は元より、東北、関東、東海の各地を巡教し、教線を拡張せられました。 この頃京都では、僧風が俗化し、教学面に於ても台当の分別がつかぬ程堕落しましたので、日陣聖人は護法愛宗の念よりたびたび京にも上り祖道復帰を叫ばれました。その後、後奈良天皇を始め、山吉、上杉、長尾、徳川、溝口等の武家の帰依をうけ現在に至っております。毎年春秋の彼岸会。祠堂大法要、千部大法要、十月の御会式には参拝者多く、特に二月の節分大祈願会・鬼おどりは全国的に有名な行事となっています。